職業としての政治 (岩波文庫)
そう、「職業としての政治」だ。これは本当にすばらしい本だ。たとえ政治へのかかわり方が、パートタイムであろうと、フルタイムであろうと、投票しかしない人であろうと集票マシーンといわれる人であろうと、この本に現代に至る政治の形がみな書いてあるように思う。ちなみに、本当に選挙を中心としる装置、マシーンという言葉がこの本の中にでてくる。なぜ自民党のような政党では、議員はたんに票を投じるだけの存在になるのか、なぜ幹事長というのがあんなにえらいのか、みなこの本の中で説明されている。本当に蒙を啓かれるとは、このことをいうのであろう。
この本は、マックス・ヴェーバーの最晩年の講義をまとめたものだという。1920年が没年であるので、死の1年前である。第1次世界大戦が終わったばかりのこの時期に、ここまで現代にいたるまでの政治の形について正確に分析し、人々のそれからの動きについて予見していたということは、筆舌に尽くしがたい価値があると思う。この本の、もう一つのすばらしさは、ヴェーバーのドイツの青年に向けてのことばである。青年達を育てようとする、ヒントを与えようとしている最後の節の言葉はほんとうに胸にしみる。
暴力論〈上〉 (岩波文庫)
ジョルジュ・ソレルの「暴力論」はムッソリーニに大きな感銘を与え、ボルシェヴィキのような社会主義運動にも多大な思想的影響を及ぼした名著である。本書のタイトル「暴力論」を見て、わかりやすい意味での暴力を想起する人も多いと思われるが、ソレルが言う暴力には二つある。一つは体制側つまりブルジョワジーが行使するフォルスとしての暴力、これは一般的に暴力装置としての国家が有するすべての作用を指す(例えば、法的拘束力の担保としての強制執行、本質的意味における軍事力など)。一方で、もう一つの暴力とはヴァイオランスとしての暴力である。この後者の暴力こそが、ソレルの主題としての暴力ということが出来るであろう。では、ヴァイオランスとは何か、それは訳者の解説にもあるように常に物理的な暴力を指すものではなく、生産者(ここで言う生産者とはおそらく自らの意志を持った労働者である。ソレルは生産者を創造性という観点から芸術家に類するものと見ていた)の意志から自然に湧きあがってくる生きることへの意志の発露であり、むしろ平和的な形での暴力である。具体的にソレルはゼネストをその代表例と見なしていた。
このような暴力の捉え方にはニーチェやベルクソンの影響が見られるが、彼の思想の背後にある考えはおそらくより広い意味での労働者の解放に在ったように思われる。ソレルが上述の意味でのフォルスからの解放を重視し、既存の社会主義者から距離を置いたのは、ソレルが組織というものが存在する限り、労働者の解放が全く不可能であるという洞察を抱いていたためではないだろうか。結局のところ社会主義者が目指す革命は新たな主人を労働者に与えるだけであって、問題の解決には全くならないと彼は感じていたのではないだろうか。私はソレルの「暴力論」があらゆる種類の組織からの個人(労働者)の解放を意図して書かれたものではないかと考えている。このような考え方は、およそ労働貴族の存在を当然と見なす人から見れば、非現実的も甚だしいと言うことになるが、ソレルが「暴力論」において示した思想が非現実的で無用の長物であると言うことはできない。ソレルが現実主義者であったことからも理解されるように、彼自身も自らの思想の困難さを十分に理解していたはずである。私は、彼はファシストでもなく、社会主義者でもない、偉大な自由主義者だと主張したいのである。出来るだけ多くの人に偏見を持たず読んでもらいたい名著である。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫)
近代資本主義の精神は天職として仕事にはげむことを教えたプロテスタント諸派によって培われたとする長編論文。その出発点は、聖書の翻訳で「天職(Beruf)」という言葉を採用したルター。しかしルター派は生活環境(職業)に対する宿命論的な色彩が強く、職業活動への積極性は薄かった。これを転換したのがカルバンの思想的末裔であるピューリタンたちだ。彼らにとって地上の生活は神を賛美する場だった。それは神に選ばれた者である自己の救済を証明する試みでもあった。その中心点は自己の職業に打ち込むこと。そのため彼らは職業生活を「神の意志」に従い合理化しようとした。カトリックやルター派とは異なり、カルヴァン派では懺悔などの秘蹟が否定される。それは怠惰などの罪悪が最終的に赦される場が払拭されるということだ。そのため彼らの生活の合理化は隅々まで徹底されていく。この神の意志による人間世界の合理化は夫婦の性交渉など家庭生活の裏面にまでおよんだ。そこから素朴で自然な人間性ではなく、イギリス人などに見られる孤独で内面的な厳しさのある人格が形成されたという。ただし脱魔術化(Entzauberung)の最大の産物は、時間の管理や経済的節制などの資本主義的生活態度だった。このような資本主義の精神は経済社会が巨大な機構として自立するとともに、宗教的背景から歩みだし自立していく。そこからヴェーバーが最後に言及するニーチェの「最後の人間たち」(letzte Menschen)が登場する。それは彼の言葉では「精神のない専門人、心情のない享楽人」である。ヴェーバーをこの宗教社会学的研究に赴かせたのは何だったのだろうか。それは最後の人間たち、つまり同時代への驚愕だったのではないだろうか。