流れゆく時の中で
御案内させていただきます。コンセプトは「さわやかさん」。ひたすらクリスタルなサウンド構築に徹する。そのへんが「好き嫌いの分かれる部分」だろう。かなりうそっぽいこのような「人工的なブリリアントさ加減」は個人的には大嫌いなパターン。でだ、ボーカリスト自身の表現力はどうかと言えば=それが普通じゃんね。高音部を聞かせる=つまりエアサプライみたいなクリストファークロスみたいなサウンドになるのはいたしかたなかろう。アレンジのあげぞこ効果がなければ「撃沈」しているであろうアルバム。アレンジが「しゃしゃりでてくる頻度がかなり高く」、いったいアレンジを聞かされているのだか歌のほうを聴かされているのだか「わかんなくなることが多い」。参加ギタリストが自己アピールしたいのはよおおおおおくわかるが、果たしてこのボーカリストをうまくプロデュースできているかは「はなはだ疑問」。トトライクなアレンジなど、「手垢のついた」ふるい手法しか展望はなく、このボーカリストでしか表現できない世界はまったく見えず残念。ステレオタイプというわなに見事はまった音楽。差別化が行われておらず、アレンジが「暴走してて目立ち過ぎな典型的なサンプル」。トトと同じような犯罪といえるかも。
つまりは「バックミュージシャンたちによるオーバープロデュースということ」。最後まで聞けません、ごめん。 (2点)
教師花伝書
蜻蛉と撫子の図柄の表紙が美しい。世阿弥の「風姿花伝」の内容を引用しながら、教師が専門家として成長するための生き方について、著者が出会った教師の実践や訪問した学校の様子を通して述べられている。
「学び続ける」というのは、一人でがむしゃらにではない。「評価」し合うのではなく、子どもからも、若い教師からも、「発見」と「驚き」を見いだして学び合う姿勢を持ち続けるということ。
すべての教師、すべての児童生徒が学び合う学校を創ることを目指して、教育に携わる人には、ぜひ読んでもらいたい。
教育の方法 (放送大学叢書)
当たり前と思われてきた授業の「スタイル」にもそれぞれの歴史と意味があり、日本で主流の「一斉授業」も世界の中に置いてみると、ローカルなスタイルであることがわかる。とかく自己の周辺に起きる事象の中で考え勝ちな教員にとって、世界的な視野で俯瞰的に考えるきっかけを与えてくれる。
教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる
「行動する教育学者」と称される著者が1万を超える授業を参観し、またあまたの学校と交流する中で探り、提唱する「学校改革」を提示した良書です。
多くの教師にとって「良い授業」とは子どもたちが活発に議論し、最後には明瞭な「答え」にたどりつく授業でした。著者は今必要とされるのは、そうした派手な授業ではなく子どもたち一人一人のつぶやきを教室の中でつなぎ、行きつ戻りつしながら「学び」を深めるような授業である、と言います。それは地味で、なおかつ端で見ている分にはじれったいほど悠長な営みです。しかし教師が子ども一人一人に対して真摯に向き合い、あらゆる発言を尊重しながら進められる授業とはそういったものにしかならないはずだというのです。
こうしたプロジェクトを経た子どもたちは、「聞く」能力を身につけ、従来の勉強とは違う「協同」する力を獲得することができるのだといいます。これこそが21世紀に必要となる力だと著者は提唱するのです。
現場を知らない政治家や評論家から大上段に振りかぶって放たれるいかにも粗雑な教育改革論とは異なり、佐藤氏の語る学校改革は現場の教師達が手探りで進めている小さな試みに目を向けています。そしてその小さな試みが大きなうねりに(しかも世界的な)なっているまさにその過程を描いています。私も教師の端くれとして示唆に富む一冊でした。学校に通うお子さんをお持ちの方にとっても良書だと思います。