バッハ:マタイ受難曲(全曲)
クレンペラーは宗教音楽を得意としていた。いや、得意としていたというよりもクレンペラーが創る音楽が、楽曲の精神を媒介する使徒たらんとする指揮者の全個性を刻印していると言ったほうがより正確かもしれない。彼の指揮したものを聴くと、クレンペラーだとすぐに分かるようなものが多く、それはどの曲に対してもその曲に適した表現をするのではなく、曲がクレンペラーによって一度還元され再び彼の全個性によって再創造されているからである。フルトヴェングラーもそうなのだが、しかし二人の個性は相反する。けれども、最も深い部分では二人の個性は一点に交わる。つまり、「精神」という点である。
この「マタイ」は晩年のクレンペラーの宗教音楽録音の最初に当たるものであるが、この時期のフィルハーモニア管弦楽団は絶頂期であった。クレンペラーの下では彼らの奏でる音楽が当代一流の管弦楽団に比肩する、もしくはそれ以上の高みにあったのは想像できるだろう。この録音の三年前(1958年)にはあの伝説的なリヒターの「マタイ」が録音され、クレンペラーはそのことを知っていたのであろうか。リヒターの演奏は厳格なリズムと拍節を基礎として、楽曲の本質を内面的に抉り出すものであるが、このクレンペラーの演奏は「マタイ」という殿堂と真摯に向き合う一人の巨大な個性によって表現されたものである。テンポは悠揚迫らず、曲によっては遅すぎるというものもなくはないが、巨大な楽曲での説得力の強さは他に比肩するものがない。
例として、冒頭合唱、第一部終結コラール、そして楽曲の終結合唱は大河の如く押し寄せる圧倒的な感動に襲われる。同じ事がすべての「コラール」にも言え、祈りの深さはリヒターのをも凌いでいる。「アリア」は遅すぎてもたれる曲も二、三あるが、逆に遅いがゆえに限りなく美しい演奏もある。例えばブルーノ・ワルターが絶賛したと言われる「ピラトの尋問」の最後の部分であるソプラノのアリアなどである。歌手たちは総じて素晴らしく、特に福音史家のピアーズ、イエスのディースカウ、アルトのルートヴィヒはずば抜けている。ソプラノのシュヴァルツコップは若干作為的な歌唱の部分があり、この純真な「マタイ」に合わないような気が私にはするが、悪いというほどではない。そして、最後にクレンペラーの非凡な個性がこの大曲をまとめ上げていることを言っておかねばならない。イエスの死の前と後では音色も含めて全く異なる色合いを帯びている。死の前では、死に向かうイエスとそれを見守る者たちの痛烈な悲しみや憤りが色濃く表現されているのだが、死の後は清浄なものになっている。そして、「イエスは本当に神の子だった」の部分では、リヒターのように内的なドラマとしてではなく、あくまでも一場面として簡潔に表現している。つまり、聖書に基づく部分では叙事的な演奏を行っているのである。この個々の楽曲の描き分けの素晴らしさもこの「マタイ」の一つの特徴と言えるだろう。
このクレンペラーの「マタイ」は単なるドラマを超えた偉大な宗教音楽の殿堂であることを私たちに教えてくれる遺産である。
小澤征爾 / マルタ・アルゲリッチ [DVD]
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マーラー:交響曲第2番《復活》
んーっ…フレディ・ハバード「オープンセサミ」やナック「ゲット・ザ・ナック」みたいな…若さに任せて音楽的情熱と才能を出し切った名演…ただホントに出し切っちゃった…この後のメータは「指揮屋さん」って感じです、聴いてて辛い。
この頃のウィーンフィルは、ベームとブラームス全集やブルックナーの名盤を次々に録音していった黄金期、しかも若いコンマス、ヘッツェルはメータと同世代、演奏が悪い訳が無いです。
それと、やっぱりクリスタ・ルードウ゛ィヒ…六十年代が彼女の全盛期だけど…晩年の録音に聴かれる「凄み」は圧倒的な説得力が有ります。(ベームと録音したブラームス「アルト・ラプソディ」も素晴らしい!)
ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)
本書はウィトゲンシュタインの初期、中期、後期へと時代を追って、問いと考えの変遷を追う。哲学は答えではなく、新たな問いを投げる。著者は、この本を哲学の本であって、人物紹介でもなければ、解説書でもないと述べる。
言語ゲームに至るまでのウィトゲンシュタインの語りの過程が、その後の確実性の問題まで、新鮮で興味深かった。限界を突き詰めていくような考えの過程。問いの答えがないと覚るしかない限界。そうとしか言いようがない事態、あるがままに受け容れるしかない与件、そして語りえないとすら語りえないもの。
私とあなたは、どうしてこれほどわかりえないのか。
私はあなたがわからない。語りえぬものを語ろうとして私は失敗した。私の背後にありもしないものを読み取られて幻滅した。
私はあなたの注意を私に向けたい。それ以上のなんの意味があっただろうか。あなたは私をわからない。
私の興味のあるところでは、他者理解や私的言語について、もうしばらく反芻して吟味し、咀嚼していきたい。読者が「私の問い」を問うたら、おそらく本書の目標達成に一助をなすのではなかろうか。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
「論考」の目的は、思考の限界を確定させることだと冒頭で著者は述べています。
なんて魅力的なテーマなのだろうと、その部分を読んだとき多大な期待感を抱いていたのですが、その期待を超える内容が本書には詰め込まれていました!!ウィトゲンシュタインが提示する様々な概念や解釈に感動すると同時に、それに対して所々抱く疑問をすぐ解消してくれる、痒いところに手が届くような野矢先生の解説にもまた大満足です☆
ただ、論理学の素養が皆無である私としては、第四章「これでラッセルのパラドクスは解決する」と、第六章「命題の構成可能性と無限」は理解不能で読み飛ばしてしまったのですが、そうだとしても本書に対する全体的な理解にはほとんど支障は無いと思います!部分的に難解な箇所に遭遇することがあるとは思いますが、是非へこたれることなく、最後まで読みきってしまいましょう!!