高丘親王航海記 (文春文庫)
作者の小説の中で、一番純粋で美しい小説だと思っています。
そして色気があって慈しみに満ちていて。
人生は旅のようなもの、という言葉があるけれど、少し俗っぽくて好きではありませんでした。しかし、この小説を読み終えて、再び頭をよぎりました。今度は、この言葉が浄化され神聖なものとして。
愛おしい物語です。
O嬢の物語 (河出文庫)
最近、この翻訳作業の大半が、故矢川澄子氏の手になるものという事実が判明した。すばらしい訳文である。著者が誰かということもずっと謎に包まれていたが、その問題も解決した今、改めてこの書の真の価値が問われる時代が来ていると思う。
快楽主義の哲学 (文春文庫)
生前三島由紀夫にそのデカダン的な生き方を絶賛された澁澤達彦による痛快エッセイ集。
本書冒頭においても、「この人がいなかったら、日本はどんなに淋しい国になるだろう」と、
ものすごい褒めちぎりようだ。
本書は、禁欲と勤勉の末に獲得される雀の涙ほどの「幸福」がまるで唯一の美徳のごとく
取り沙汰される現代(といっても1965年当時の)へ疑義を唱える著者による、渾身の快楽
主義宣言だ。興味深くなるほどなと思わされるのは、幸福が主観的実感に過ぎないのに
対して、快感は客観的な事実だ、という指摘だ。例えばどこかの企業の社長さんは、金銭
的社会的ステータスからして幸福ではあるが、本人には意外と幸福感がなかったりする。
それに対してその社長さんがベットの上で果てる時、その体で味わう快楽は、いくら疑おう
と絶対的な快。そう!「我感ずるゆえに我あり!」なのだ。
だが読みすすめていくうちに、この人が単なるはじけた無教養なおっさんではないこともわ
かってくる(というか解説の浅羽通明によると本書は澁澤の著作の中でもその執筆過程か
らして例外的なものらしい)。いにしえの哲人から文人まで、この人の知識量が生半可なも
のでないことは明白なのだ。僕が思うに、彼は旧来の君は如何に生きるか的な教養的教
養をよしとしてないんじゃないだろうか。ずばりそれは、反教養的教養のすすめだ。
しかし、視線を現代に移してみよう。彼の推奨するデカダンな生き方が、そこまで珍しいもの
だろうか。残念な話、鶏姦(わからない君は黙ってググってみよう!)するやつなんてそこま
で珍しくはないだろうし、今じゃ「セルフ鶏姦」もあり、さらにそのマニュアル本が売れてしま
う時代だ(詳細はひとりでできるもん ~オトコのコのためのアナニー入門~のこと)。
そんな中、澁澤のデカダンの勧め、とりわけ性についての逸脱はホコリを被った教義にすぎ
ず、現代こそが底の抜けた快楽主義の時代なのかもしれない。
否。
これも本書を読めば分かるが、彼の快楽哲学を突きつめていけば、真逆にさえ思える禁欲
主義と隣接する。そのストイックな精神から、僕ら現代の「動物化」した快楽主義者は学ぶ
べきところが多い。
繰り返すがこれは、反教養主義的“教養”の、本なのだから。