大逆事件――死と生の群像
大逆事件に関する日本人の平均的な知識は、たぶん、次のようなものではないだろうか。
「日露戦争後、明治天皇の暗殺を計画したという理由で、多くの社会主義者がとらえられ、幸徳秋水らは死刑になるという事件(大逆事件)もおこりました」(教育出版 中学 社会教科書)。
1910年5月25日、爆弾製造の疑いで長野県の宮下太吉ら4名が逮捕された(信州明科爆裂弾事件)。その後、この事件は大きく展開し、社会主義者・無政府主義者の根こそぎ検挙が行なわれ、結局幸徳秋水や菅野須賀子ら計26名が天皇の暗殺を計画した疑いで起訴された。大審院での非公開の公判は異例のスピードで進められ、1911年1月18には、死刑24名、有期刑2名の判決が下された。1月24日には幸徳秋水ら11名が、25日は菅野須賀子が処刑された。死刑を宣告された残り12名は、直前に無期刑に減刑された。その後、無期刑中に獄死したのは5名に及び、仮出獄できたのは7名に過ぎない。
敗戦後発見された関係資料により、暗殺計画に多少とも関係していたのは宮下太吉ら5名に過ぎず、残りの人々はでっち上げにより事件に巻き込まれ、刑死あるいは獄死し、また長期の刑を課されたことが判明している。
本書は、100年を経た大逆事件の関係者(被害者やその遺族など)を全国に訪ね歩き、現在と100年前とを交差させ、家族や地域に愛され、無念な死を遂げた人々とその背景を浮かび上がらせている。100年前の負の記憶のインパクトは大きく、いまだに誤った知識のまま、国民の大部分に刷り込まれている。その中で、かすかな希望は、被害者の出身地や所属した宗教団体で名誉回復の動きが生まれていることである。
権力によるでっち上げとしての大逆事件がわれわれの常識となるまで、大逆事件は終わらない。空恐ろしくなるのは、検察のシナリオを前提に取調べが行なわれ、それがそのまま裁判で採用されるというスタイルはこの大逆事件だけでなく、現在の特捜部の捜査にそのまま継承されていることである。本書は、現在も終わっていない大逆事件を鏡に、今の社会や政治を観るための良書である。