遠野物語・山の人生 (岩波文庫)
河童や座敷童子で有名な「遠野物語」は宮沢賢治の童話のイメージと相まって、「懐かしくも美しい東北の自然と幻想」といったイメージをかき立てるようだ。(実際そのような「まち起こし」が現地では盛んである。)だが、実際にこの岩波版に収まっている「山の人生」「山人考」と一緒に「遠野物語」を読むと、そのようなスタジオ・ジブリ的お伽話へのセンチメンタリズムではなく、「常人」の文献に書かれた「日本史」から漏れた「山人」達が鬼や山姥、河童等に読み替えられたという視点から、日本史を民俗学的に再構成しようとした意図と熱意がかなりストレートに伝わってくる。なので、この本を読みながら遠野を歩く場合、奥深い山々を見ながら「山人」達のかつての暮らしぶりに思いを馳せるような民俗学/歴史ロマン寄りの旅の方が僕にはシックリくる。実際、本書所収の桑原武夫の文章(昭和12年発表)や「遠野物語」に触発されて同名の写真集(昭和51年発表)を出した森山大道によると、彼らが現地を訪れた頃には、既に現地民は本書に書かれた民話の地名すら知らなかったという。「遠野物語」がツーリズムに利用されて読み方が変わるのは、地方観光ブームが起きた昭和の終わり以降ではないか。
さて、著者が語る「山人」や妖怪等には、大和朝廷以前から山岳地に残っていた狩猟系民族であったり、精神疾患者、奇形の子供等などが含まれている。こういった農村共同体からはみ出て暮らしていた人々、暮らさざるを得なかった人々への哀れみや温かい視線が本書の文章の端々から感じられる。勿論、柳田の山人理解やイデオロギー性が現代の民俗学では批判の対象になっている訳だが、それでも僕は本書の一番の味わいどころはこの温かさにあると思っている。
久遠〈上〉―刑事・鳴沢了 (中公文庫)
このシリーズで一度でも出た人ならほとんど顔を出すという
超豪華オールキャストで、
物語の始まりからエンジン全開で話が進む。
この上巻では、かなり大きな風呂敷を広げているが、
どう収斂させるのか見ものである。
星は、追い詰められた鳴沢にあまり、切迫感や焦燥感が感じられないので
4つとしたが、
下巻を読んでどうなるか。