次郎物語〈下〉 (新潮文庫)
次郎物語は 次郎が小さい頃の部分が人気があるような印象を受ける。但し僕としては むしろ 次郎が朝倉先生と 東京に出てきた部分を偏愛している。
この部分は 当時の日本の軍国教育との戦いという 幾分ごつごつした内容だ。それ以前の「次郎物語」が 時代との対決色が薄かっただけに 印象的ですらある。
時代を扱う点で「固い」部分もあるのだと思うが 著者の強い意志が明示されており 下村が これを書きたかったのだなという点が伝わってくる。
この部分で出てきたことで 歎異抄を 高校時代に読んだし 二宮尊徳の「夜話」も最近になって購入したほどである。今なお 影響を受けている僕も ある意味で暢気で気が長いのかもしれない。
下村は続編を書くと巻末で約束していたが それはならなかった。僕としては非常に残念であったが 何が 下村をして 書かせなかったのだろうか?
次郎物語〈上〉 (新潮文庫)
なんとなく言うのが恥ずかしい気もするが 次郎物語は僕の愛読書である。
なんで恥ずかしいのかを自答しているが やはり ストレートなまでの素直な本だからかと思う。
例えば 僕は 芥川龍之介という作家の著作も非常に好きだ。これは言っていて恥ずかしくない。芥川という稀代の芸術家の作品を讃することには問題がないのだと思う。
その点 下村湖人という方は「芸術家」とは言い難いものがある。むしろ「教育者」の資質がきわめて強いと思うのだ。
僕は芥川の作品を読んで 何かを学ぶということは出来ない。彼の著作が好きだとしたら それは 圧倒的な「美」がそこにあるからだと思っている。実際 芥川の作品のいくつかは まるで工芸品のような美しさを持っている。壊れやすいガラス細工のような。
それと比較すると「次郎物語」には かような美は見いだせない。但し 行間から聞こえてくる著者の「教え」には 中年になった今でも学ぶ点が多い。
いい年をして「勉強」していることが恥ずかしいのだろうか?
論語物語 (講談社学術文庫 493)
中学の時に読んでから、ときどき思い出して読み返しています。ある意味で自分の人生の規範にはなったかも。守れてはないですが・・・。 でも、湖人の論語は決して固くなく、また、説教臭くなく、孔子の人間くささを伝えていると思います。