アース ハエとり棒
棒状タイプのハエ取り器。
ぶっちゃけストローに粘着剤を塗りたくってあるだけなんで、なんとなく高価い買い物のような気にさせられますが、なかなかどうして使い勝手がいいです。ハエの特性である「棒状のものにとまりたがる」を見事に突いている感じ。
付属の台座はいまいち邪魔なので、プラ棒かなにかを設置希望場所に取り付けておけば、ものがストローなだけにカポッとかぶせれば設置はOK。楽です。
ハエ取り紙のようにぶら下げる必要はありませんし、4本を別々に設置すればトラップ範囲がかなり広がります。
難点としては、ストローの粘着剤を包んでいるビニールがやたら取れにくいのと、比較的低い位置に設置するため、気をつけないと腕とかにくっつきかねないことぐらいでしょうか。
竹田の子守唄―名曲に隠された真実
この本にはまりました。読むだけで飽き足らず、解放会館で行われた著者の講演会に参加し、本書付録のCDに入っている「竹田の子守唄の原曲」も聞かせていただきました。胸の奥が打ち震えるような感激を久しぶりに味わいました。差別することの愚かさ、差別されることの悲しさを感じることのできる本です。たくさんの方に読んでいただきたいと思います。
放送禁止歌 (知恵の森文庫)
マスコミ業界で働いていると、ホントに、なんで筒井康隆がキレたのか、
よくわかるような現実があるわけで、私個人が「どうしてダメなわけ?」と
素朴に疑問に思っても、その理由を解きあかす努力と上を説得する努力を怠り、
書き直し校了。いかんよ。このままではと思っても、動かなければ、
思わないのと同じ。ああ、自分でもよくわかってるんでよ。わかったちゃいるけどね…。
だから、著者が最後に突きつけたものは、本当に痛く、痛く、胸に刺さってます。
同じようなことを感じていた著者が、きちんと動きだし、たどり着いたのは、
とんでもない事実で。本当に呆れるというか、不勉強というか、情けないというか。
『差別』や『放送』に詳しくない、門外漢だからこそ、たどりつけた真実。
単純に、読み物としても、スリリングでおもしろかったのも、悔しい。
ドキュメンタリーといい、本といい、ホントに、いい仕事です。
GOLDEN☆BEST 山本潤子(赤い鳥/ハイ・ファイ・セット)
ひたむきでみずみずしい新居潤子と愉快な仲間たちの「赤い鳥」、スーパーヴォーカリスト山本潤子におまけが二人ついた「ハイファイセット」、円熟した大人のソロヴォーカリスト「山本潤子」いっぺんに楽しめます。
表現力なのか声の威力なのか、彼女が歌うことで歌に魂が宿ると感じるときも。
初期は悲しい思い出ばかり書いていた荒井由美の作品も、本人の歌だと「ふーん、そうだったの。でも過ぎたことだし、もういいんじゃないの?」というくらいの感想しか持てなかった私ですが、同じ歌を潤子ちゃんが歌うと「そうかそうか、つらかったんだね、がんばったんだね、何か僕にできることがあったら言ってくれてもいいんだよ!それにしても荒井由美っていい曲をいっぱい書いたんだなぁ」となるわけです。小田クンも伊勢クンもいい曲を書くんだなぁって、彼女の歌を聴いてから初めて認識しました。
この人が歌ったらどんな曲でも名曲になるんじゃないか、そう思わせる彼女も還暦を過ぎた今、旬の声を楽しめる貴重なCD。いろんな想像をしながら楽しんでいます。
子ども観の近代―『赤い鳥』と「童心」の理想 (中公新書)
新書として、長さと内容のバランスがよい本だ。表題のテーマに関して短時間で学習的満足感を味わえる。1998年2月に初版が出て、2007年11月に再販。関心のある向きにコンスタントに読まれているのだろう。主に、近代日本における「子ども」イメージの形成を、児童文学の変遷、特に鈴木三重吉の創刊した『赤い鳥』にみられる子どもの描かれ方に注目して論じられる。明治期の巌谷小波に代表される「お伽噺」のように、とにかく「子ども向け」の物語を一括して提供していた時代から変わって、大正7年に誕生した『赤い鳥』はより明確に独自の「子ども」像を提示していた。それは、純粋でか弱い良い子、という理念的な「子ども」像であった。後に『少年倶楽部』のような元気で勇猛な「子ども」像(やがてお国の為に戦う)の前で影が薄くなるにせよ、この『赤い鳥』が物語った「子ども」の姿は近代日本の幼年者をめぐる「知」としては大きな影響力をもった。そこにこめられた「童心」の理想化の背後には、ますます近代化する社会のなかで世俗の荒波からの逃避場を求める大人たちの心情があったと、というのが著者の結論的な主張である。なるほど、とその簡にして要をえた論述にはひっかかるところなく得心した。近代日本の「子ども」をめぐる研究書としてまず手にとってほしい一冊。