対訳 21世紀に生きる君たちへ
「21世紀に生きる君たちへ」の表題どおり、そして文章の中にも出てきたが、司馬さんは、遂に見たかった21世紀を見ることができなかった。生前の司馬さんの講演を思い出す。
東アジアでちっぽけな国になっても誇りをもって他の国に迷惑をかけず、できれば世界に貢献し、お金持ちの国ではもうなくなっているかもしれないけど「尊敬される国」になって欲しい。そんな思いを思い出した。読んで涙が出てきた。
「自分に厳しく他人に優しく」「たのもしさ」を持って自律した個人として生きて欲しい。他人の言うまま無批判的に生きるのでなく、その結果を他人に転嫁するのでない生き方をして欲しいという子供たちへの願いに溢れている。「自分の頭で考え、自分の判断によって行動し、その結果起きた事実は自分で引き受ける」近代の自律した市民を自己の中に確立しなければ、戦争を起した日本人と同じ過ちを犯すのだという事を、生前繰り返し話されていたことを思い出す。
緒方洪庵の「利を求めず、名を捨てよ」という精神は、司馬さんがよくあげられていた幕末の熊本の宮崎兄弟の「世のために尽くせ、人のために尽くせ、そのために死ね」の言葉や吉田松陰の「私は大事を為したい」という言葉を思い出した。
「利よりも義(正義)」といった美しい日本の美徳について、まだまだ司馬さんに生きて方って欲しかった。
今年2月12日の命日で死後11年になる。
司馬さんの心や願いは一体、しっかり21世紀に生きる我々日本人の心に生きているのか?
そう思うと申し訳ない気持ちで悲しくなった。
お亡くなりになった1996年から11年後の今が、そのときより、いい日本になったととてもでないけれど言えないから。
できるだけ子供たちにも、多くの大人にも読んで欲しい。
司馬さんの渾身の我々への簡易簡潔ながら心のこもった「日本人みんなへ宛てたかけがえのない遺書」であるのだから。
徒然草 (英文版)―Essays in Idleness (タトルクラシックス )
これ以上の翻訳は考えられないと思います。然し原文と並べてみるとそこには何かの違いがあります。これは何でしょうか、翻訳の限界を考える上でいい参考になると思います。
日本人と日本文化 (中公文庫)
日本文化のいろいろな断面を浮き彫りにしてくれます。長距離の汽車でとなり同志の司馬、キーンの日本文化に対する世間話をたまたま乗り合わせて立ち聞きしているよう。読者に安心感、平易感をかんじさせます。司馬、キーン両氏の学識の深さを改めて認識しました。
百代の過客 日記にみる日本人 (講談社学術文庫)
ドナルド・キーンによれば、日記を文学形式として高く評価している国は、日本だけだという。この本では、平安時代から江戸時代までの約80にも上る日記を紹介し、その独自性を明らかにしようとしている。
それぞれの日記について、キーンの感想が簡潔に数ページ程度で綴られている。その形式は、まるでこの書の主題である日記のようだ。
この書のクライマックスは、紛れもなく、江戸時代の松尾芭蕉の奥の細道である。キーンは、奥の細道を、紀行文学として、あるいは詩と散文の融合の巧みさなどを、世界文学と比較しながら、その芸術性を紹介している。
キーンは、その博学をさりげなく展開しながら、しかし、表面的には、まるで普通の人間が各日記を読んでその感想を記すように、自分の素直な感想をわかりやすい表現で、この書を書いている。
この書を書くきっかけのひとつは、キーンが太平洋戦争の時に、日本人が戦地に残した日記を読む機会があったからだ、というエピソードを紹介している。
平安時代はあれほど盛んであった女流作家の活躍が、鎌倉時代以降はひっそりと息をひそめてしまう。江戸時代にも、いくつかの作品はあるが、女流文学の復活は、近代の訪れをまつ必要があった。
日本人は、短歌や俳句に代表されるように、刹那的な感情を表現することを芸術の本意としている。代表的な物語文学である源氏物語も、その内容は、印象的な様々なエピソードの積み重ねで、これといった大きなテーマやストーリーはない。
その意味で、日記という文学形式は、もっとも日本らしい文学形式の1つと言えるだろう。