きかんしゃやえもん (岩波の子どもの本)
私が子供の頃読んだ絵本を偶然見つけて、懐かしさのあまり自分の子供にも購入したのですが、むかしかかれた本でも時代の違和感無くとても面白い絵本ですよ。特に電車ずきの息子は何度もページをめくっては楽しそうにしています。やえもんが語尾に「しゃー」をつけて話すので私たち夫婦も時々やえもん語が移ってしまうほどです。今ではあまり見られなくなった機関車ですが絵本の中ではちゃんと生き生きと描かれていますよ。
井上成美 (新潮文庫)
この作品は太平洋戦争の終戦に尽力した提督、井上成美の生涯を描いた伝記小説である。とりわけ戦争前夜から晩年までに焦点を当てて描かれている。構成の仕方に妙味があり、海軍軍人としての井上と、海軍が解体されたあとの晩年の井上と、彼の人生における異なる局面の時間軸を前後させながら物語は展開する。
感じたのは、作品をうかつに読んでいると井上の何が徳なのかが見えてこない可能性があること。大局的、本質的に観察してこそ井上の功績は認めることができるものだろう。
さて、井上には性格的欠陥が多分にあったと、まずはそう言わねばなるまい。思ったことは歯に衣着せずそのままズケズケと言ってしまうし、正しいと信じた事以外にはテコでも動かない頑固さがあった。そして何より潔癖症であり、秩序だったものを病的に好む。当然周囲との摩擦が絶えず起こり、敵対者を大勢作った。井上のこの性格はついに生涯貫かれる事になったが、しかしこれをもって井上を過小評価することは出来ない。この作品では様々なエピソードを引いて井上成美の人物像を多角的に映し出している。
人間には良い面も悪い面もあって、一元的にその人を「こうだ」と決め付けることはできない。阿川氏の作品ではそういうことがよく踏まえられており、主人公とする人物の欠点、または偉大性ばかりを強調するような書き方はしない。戦時中や終戦までの悲愴な過程を描くときでさえ冷静な筆致は変わらず、距離を置いた観察者に徹している。それだけに読者は物語を客観的に読むことが出来、様々な感慨を自らの頭の中に思い描く事ができるのである。
様々見てきて、最終的にはああいう狂気の時代にこの人物がいてよかったという結論に達するのが本書の主題ではないか。性格はどうあれ、正しい方向に向けて行動し発言できる人間がいなくなったらオシマイである。現代の国の舵取りを見るにつけ、一層それを強く思う。
山本五十六 (下) (新潮文庫 (あ-3-4))
山本五十六に関しては、およそ支離滅裂な愚将という印象しか湧いてこない。しかしながら、この作品に見るように、戦後も彼を異常に美化する人々が如何に多いことであろうか。大方、戦前、海軍や外務省にいた人々は、自分達は戦争に反対であったのに、陸軍が無茶をしてあんな戦争になってしまった。我々は常に利口でスマートであったという、優越感のようなものがあって、その象徴として山本五十六という存在が必要なのではないだろうか。「二年間は暴れ回ってご覧にいれます。それ以上となると物量が続かないのでそれまでに講和してください」というのは、確かに賢そうに聞こえるが、もし、その言葉通り将来的な講和を睨んでの作戦なら、真珠湾奇襲のように相手の急所を蹴り上げるようなまねはしないだろう。酔っぱらいのケンカでさえ多少の分別がのこっているのなら、せいぜい、胸ぐらをつかんでの取っ組み合いである。結果として、アメリカ人をして、原爆を叩き込んでも良心の呵責に苦しむことないほどに日本に対する憎悪をかき立てたのが山本ということになる。アメリカの国力を知り尽くしていたというなら、政治の延長としての作戦を優先するべきではないか。もし漸減邀撃作戦に類似した戦い方を選択していたならば、かなりの長期にわたって交渉の可能性を残していたであろうことを考えれば、一時の功名に走って日本の命脈を丁半博打に賭けた博徒としての山本像しか浮かんでこないのだが・・・。それに死に場所を求めての南方視察なら一式陸攻の搭乗員は自死に付き合わされたということなのだろうか?確かに、あの様な戦争は誰も望んでいなかった、それに反対していた「海軍」というエリート集団の代表をヒーローとして持ってきたいという旧海軍軍人の気持ちは分からなくもないが、虚像を理想化し続けることは進歩にはつながるまい。