硫黄島~戦場の郵便配達~ [DVD]
見捨てられた島、硫黄島。のちに孤立無援にされてしまう硫黄島を守るために赴任した市丸少将。彼を慕って、おびただしい敵軍に囲まれた守備隊を、せめて島の上空から支援したいと志願し、出撃する根本少尉。爆弾とともに、兵士たちの家族からの手紙を携えて!
ともに、絶望的な状況で戦いに身を投じていく姿勢は涙なくして観ることができませんでした。有毒ガスと灼熱のなかひたすら坑を掘る作業も描かれており、過酷な環境であれだけの間、戦い抜いた部隊の人たちと、彼らを少しでも支えたいと願った人たちの気持ちが凄く伝わってきます。戦闘シーンこそあまりありませんが、だからこそ感じることが多かったです。「硫黄島からの手紙」も秀作ですが、テレビドラマならではの「近さ」がよかった!
映画の方の栗林大将(存命中に中将から昇級)の横に立つ市丸少将の姿を見て、ドラマの光景が頭をよぎりました。
郵便配達は二度ベルを鳴らす [DVD]
この世の中に生まれて、格調高い魂を持っている人間と・・・そうでない・・・これからまだまだ経験をつんで、人間として勉強しなければならない・・・二流の魂の人間、とがいる。
この物語には、二流の人間ばかりが出てくる。でも、彼らも生きている。自分のおろかさにもがきながらも、性欲も愛欲も、そして生きるためのお金もほしい・・・
ヒロインは何とかしようと思って故郷を出てきたものの、ニッチもさっちも行かなくなって、自分を好きになってくれたギリシャ人と結婚して、暮らしを立てるけど・・・ほんとうは、嫌いだ。惚れてくれたニコルソンも、結局流れ者だ。そして、二人は恋に落ちるけど、浮浪者になるのは、嫌だ(女が)。だから、ギリシャ人を殺す、完全犯罪を計画する。そして、実行し、警察に怪しまれるけれども、とにかくシラを切りとおす!!!しかし、最後、うまくはいかない。
これは、凡人の欲にまみれた二流の魂の人間たちが、一生懸命もがいて希望を手に入れようとしながらも、二流であるが故に、その方法も結局犯罪になってしまい、しかもうまくいかなかった・・・ということを、その各場面にあの時、彼女がこんなに可愛かった・・・俺はこんなに彼女に惚れた・・・という思い出を切なくちりばめながら、描いた映画だと思う。
不況時代のけだるさも手伝って、底辺近くで愛を抱えて生きていく、本当に切ない、やるせなく切ない映画だ。
それを描ききった原作がすごいし、ジェシカ・ラングとニコルソンもすごい。監督さんもすごい。
ドリトル先生の郵便局 (岩波少年文庫 (023))
ドリトル先生の思い付きってとってもユニーク!鳥が郵便を配達したり・・それよりも楽しいのが「切手の裏側」普通「のり」がついていますよね。その「のり」を「くすり」にしちゃうんです。薬嫌いの人々のために・・・その他いっぱいのアイデア満載!
霧の火-樺太・真岡郵便局に散った9人の乙女たち- [DVD]
『班長の高石ミキは、事務日誌を机上にひらき、一日の勤務のまとめの記録を中断したまま、事切れていた。吉田八重子と渡辺照は市外交換台にうつぶせに倒れていた。送話中だったらしく、頭にブレストを付けていた。可香谷シゲ、伊藤千枝、沢田キミ、高城淑、志賀晴代は、市内交換台の中央に、互いに寄り添うような最期だった。松橋みどりだけは少しはなれて、窓のところまで這っていった形で倒れていた』
当時の真岡郵便局物品主任・桜井千代子氏による金子利信氏の証言。(完本・太平洋戦争・下/文芸春秋編)
『ブレストをつけたままの者四人。残りは附近に投げ出されていた。市外台の所にいた志賀晴代は右手にコードをしっかり握りブレストを付けたまま死んでいたが、これは信号があったので、応答しようとしたものの力及ばずして倒れたものであろう』
当時真岡郵便局長だった上田豊蔵氏の証言。(「九人の乙女」はなぜ死んだか/川嶋康男著)
タイトルにもある通り、本作は真岡郵便局事件を題材とした日本テレビ開局55年記念の特別ドラマである。実在した人々を扱っているが作中の9人でさえ実名ではないし、実際の面影の紹介はおろか献辞もなかった。あの樺太の8月には2週間で4200人余が亡くなったというのに、9人だけが偶像化されることをおそれたのだろうか。それとも対照されると女優たちの見目や存在感が気劣るとでもいうのだろうか。稚内公園の九人の乙女の像については、同事件を映画化した1974年の作品にも収められていたが、どちらもあのモニュメントをラストシーンで活用することには抵抗はなかったようだ。
そのラストシーン「生きてこう、生きよう、もしそう言えたら」(中村瑞枝=市原悦子)と9人が生き延びる努力を怠ったか、付和雷同に死を選択したかのようにまとめるが、高石ミキ、可香谷シゲの自決後、班員は一度は避難を試みたとされ、伊藤千枝は少なくとも3名の自決を制止したとされる。
また続いて「散華という名のもとに死を美化した時代は終わりました」(中村瑞枝=福田麻由子)とは日本史でいう、いつからいつまでを指すのだろう。大きな災害・事故で際立つが、自己犠牲をいとわぬ人も、またそれを美しいと感じる人も、この国では途絶えてはいない。そもそもそこに“胸せまりくる”ものがあるからこその九人の乙女の像であり、開局記念ドラマではないのか。
彼らの本当の名を呼び、まなざしを受けとめてほしい。かつての等身大の青春を生きた人たちだ。美化されたとかいう散華者の称号を競ってモニュメントが建ったのか、勲八等宝冠章はそのご褒美か。
「フィクションです」と断わっているのだから野暮な指摘かもしれない。
そうすると事件の生存者として語り部を担う中村瑞枝を創造し、複雑な経歴を背負わせているが、このあたりが脚本家の腕の見せどころなのだろう。したがって現代劇のパートや真岡の人々の人間模様、特に中村瑞枝(福田麻由子)の身に降りかかった出来事については違和感があっても、それによってこのフィクションのテーマやメッセージ性が損なわれることはない。
むしろ題材となった樺太史を自分で吟味するきっかけになるという発展性さえ秘められている。1974年の映画に生々しく描かれており、本作も強く喚起するように、終戦後も樺太では断ち切られたあまたの命と絆の物語が山河を波間を埋めた。
目ざした場所へたどり着けなかった人々。
守りたかったものを守れなかった人々。
守ると決めたものを守るために極限での選択を断行した人々。
家族、職場、国家を顧みない根なし草などではなかったからこそ、責任感と無力感のはざまで必死の思いが一つ一つと燃えつきた。そして結果としてその地獄から生き延びた人といえども、多くは別の悪夢の入り口へとたどり着いたにすぎなかった。
もはや北のかなたと化した地でひっそりと眠るこのような題材を、今また視聴者の目の前に提供してくれる制作者たちの誠意には素直に感謝したい。
この事件については「自決はあまりに早かった」「男がいれば回避された」「恐怖にかられてたちまち異常な心理状態に陥った」などと評する書物があるが、そういう視座には武道沢の楡の木陰で自決した大平炭鉱病院の6人の看護婦や、ひいては落城誤認により自刃して果てた白虎士中二番隊の19名などはどう映るものか。
真岡とはアイヌ語で「透明なる空気」「美しき波の上」「風光明媚」といった意味の言葉だそうだ。ありし日の美しき波の上、とこしえに続く幸せな夢の中で彼らが安らかに眠れるよう祈らずにはいられない。