海へ~現代日本フルート音楽の諸相
無伴奏フルートの分野では、セバスチャンとエマニエル、バッハ親子のイ短調の作品(パルティータ、ソナタ)がダントツの最高傑作である。
バロックでは、テレマンの12のファンタジーもこれらに次ぐ見逃せない傑作だ。
その後(古典/ロマン派)の時代には、技巧の修練を目的にしたエチュード的な作品群(クーラウ、ベーム、アンデルセンなど)があるが、フルートを演奏しない人にとって重要であるような、繰り返し鑑賞に堪える程印象的な作品は、殆どない。
近代になって、ドビュッシー、オネゲル、イベールといった人たちが名曲を書き、演奏会やレコードの常連レパートリーとなった。
現代でも、ニコレによってアンチシリンクスと言われたヴァレーズのデンシティ、ベリオのセクエンツァといった曲が書かれ、(フルート)愛好家達に人気を博している。
しかし、バッハ以降、いずれも曲は短く小品に近い、あるいは現代以降の曲は、耳に痛く、キビシく、一回の演奏会で集中するにはいいが、CDで連続して繰り返しに聞くようなものはなかった。曲を好きになって(なろうとして)、何度か聴くと、疲れるか、飽きるかで、聴き続けられなかった。
武満の遺作(1996年、ニコレの70歳の誕生パーティにあわせて作曲)、”エア”も同様であった。ただ、刺激的な音はなく、先鋭的な前衛音楽とは違い、何か親しみが持てそうな曲だった。
そして、高木綾子のCD”青の余白”(2001)でこの曲を聴き、そのゆったりしたテンポの演奏に触れて、繰り返し聞ける好きな曲になった。まさに、目を開いてくれた、驚嘆すべき演奏である。
ここでは、武満が最も信頼していたフルート奏者、小泉浩の演奏が収められている(1996年11月)。エアの作曲に際しても、電話でアドバイスを求められたのは彼なのである。演奏時間は、高木より1分20秒、献呈されたニコレの演奏より3分18秒も長い。つまり、作曲者の指示したテンポに比して究極の遅さで、曲のイメージを一新しているのだ。その結果、まさにバッハに並ぶ、いや、それ以上の音楽史上最高の作品が生まれた、と確信した。この演奏で、何度も、この曲を聴いてみて欲しい。何度もリピートで聴き続けられる無伴奏フルート曲(とその演奏)が、これまでにあっただろうか?ここまで癒し続けられる曲があっただろうか?現代曲と思えない、癒しの世界が広がっている。
アルトフルートとギターのための”海へ”も、アルトフルートの曲の最高傑作であろう。ただ、私は、ハープとのために編曲された”海へ''III”の方が好きであり、小泉浩の吹くアンサンブルタケミツのCDの演奏の方がより魅力的である、と思う。
これらの他にも12曲、現代日本の作曲家の曲が収録されているが、いわゆる現代曲であり、フルート好き以外の普通の聴衆の耳に受け入れられ、繰り返し聴き続けられる曲は、見当たらない(福島和夫の冥は?)。
サービスの教科書
私自身は直接サービスに関わる仕事をしていませんが、自分が客としてレストランに行ったとき、どうすればより良いサービスを受けられるのか、といった点で大いに参考となりました。
特に「第2章 接客の基本・応用テクニック」は、電話予約、当日の入店からオーダー、食事、会計、送り出しまでの流れに沿って注意点が書かれているので、客の立場からもどう振舞えば快適な時間を過ごせるのかが分ってきます。
日本人は積極的に希望を伝えることを余りしないので、サービスマンは何とかそれを読み取ろうとして、あれこれ努力されているのに関心しましたし、ありがたく思えました。本当は客から事前に要望を伝えたほうが、お店としては悩まずに済み、かえってやりやすいのでしょうね。でも何も言わなくてもお店が察してくれると、更に満足度が高くなるという感覚もあり悩ましいところです。
予約の時点で決められたテーブルの割り振りが、お店に入った瞬間に修正されているのにも驚きました。ドレスアップしていると何となく目立つ席に案内されるのは、お店の雰囲気作りに利用されていたわけですね(笑)
サービスマンとは、お客様の満足はもちろん、調理場や他のスタッフがスムーズに気持ちよく働けるようコントロールしたりと、店内にいる全ての人への気配りを行うことによって、お店全体の雰囲気を高めていくコーディネーターのように感じられました。
アテネオリンピック 日本代表選手 活躍の軌跡 [DVD]
テレビ中継時のような、派手な言葉で飾られた実況と専門家の細かい解説はありませんが、解説を兼ねたナレーションは、簡潔かつ最小限にとどめられています。
その分会場の歓声と緊張感が映像を通して伝わってきます。
テレビではほとんど中継されなかった種目、結果しか報じられなかった種目も収録され、オリンピックの大舞台での日本人選手の奮闘ぶりが収録されています。
祇園さゝ木の特等席
作法を越えた食事を頂くことのなんと柔らかなことか。これが肩肘張らずに、しかも会話の中での少し辛い目の言葉が加わるといわゆる「佐ゝ木流」となる。ここの料理の原点がわかって、次に尋ねることをさらに待ち遠しくさせる本なので、大将が死んだらどないなるんやろ!?と今から心配なのは私だけではあるまい。もっともどちらが先か?といえば勿論私であり、新発想、良着想、創造などどれもみな言い当ててはいるが、ここの料理はそれ以上に凛として普通である。本としてあまりにも早く読め過ぎて、もの足りない気もするが、足りない部分はというと店で食べることなので、それによって「読了」とすべきである。次の本が書けないのでは?と思わせるくらい本音満載で読み終わったあと思わずニヤリとしている大将の顔が浮かんでくるから不思議だ。